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どこの海軍歴史でも見られる話だが、米海軍も例に漏れない。戦闘で誤った判断を下した(或いは、それに近い状態を招いた)上級指揮官が、その責任を問われなかったばかりか、その「欠点」によるトラブルが少ない部署への移動させらるだけだったりしたことが、ままある。時には、昇進さえもした。 ミッドウェー海戦関連で言えば、第16機動部隊のスプルーアンスの航空参謀長を務めたマイルズ・ブローニング大佐はその好例だ。航空戦に詳しいハルゼーの下ではそれなりの能力を示していた。ところが彼に代わって、「素人」のスプルーアンスの司令部での首席参謀となると「無能ぶり」を露呈してしまった。ハルゼーには「助言」するだけでよかったが、スプルーアンスには航空戦全般を説明しなくてはならなかった。これは彼の能力を超えていたようで、しばしば癇癪を起こし部下たちともめた。要するに「役職の責務に耐えられなかった」のだろう。 敗走する日本艦隊の追撃のため指示した爆弾の積載量はSBD爆撃機の航続距離の限界を超えるものだった。 「これでは片道攻撃になる」と抗議してきた飛行隊長たちと「エンタープライズ」の艦橋で繰り広げられた「言い合い」は、「素人」の司令官の裁断で飛行隊長たちの申言がとられた。 彼については、4日の南雲部隊への攻撃を「攻撃機の航続距離圏内に入ってから発進させる」というスプルーアンスに対して、「航空戦は時間が問題です。直ちに発進させて、攻撃が終了するまでに艦隊が、その間合いをつめればいいのです」と意見具申して、「想定より2時間早い攻撃隊の発進」をさせて、見事に勝利を導いた陰の立役者となっている記述もある。 初期のミッドウェー本に、よく見られるエピソードであり、いまも「孫引き」している本も見かける。これは実際にはなかった話であったことが、スプルーアンスの伝記で明らかになった。一部始終を目撃していた副官のオリバー少佐が、そうしたやり取りはなかったと証言したからだ。 ブローニングの「殊勲」を作り出したのは、海軍航空隊の誰かだったようだ。この海戦の勝利者、スプルーアンスもその上級指揮官であったフレッチャーもいわゆる「航海屋」であり、「航空屋」ではなかった。「航空屋」のミッチャーはいたものの、海戦ではほとんど寄与できず、「落穂ひろい」をしただけになっていたからだ。 スプルーアンスは「午前7時の発進を命じた」が、これはハワイ時間では「午前9時」にあたる。オリバーによれば、日本艦隊発見の報を受けると、海図を見て考えたあと、「攻撃隊を発進させる」とひとこと命じたという。この間、ブローニングを含めて誰も意見を述べていない。 報告書の中に2時間の時差があるを利用してこれをブローニングに「助言」をさせることを思いついた人物がいたらしい。 海戦後、ブローニングは43年に就役した「新・ホーネット」の艦長になったが無能ぶりを発揮して、座礁しかけたり、艦隊の油送船と衝突しかけた。停泊中の同艦から、新任の水兵が転落死した事件を契機に、彼は艦長を解かれ、カンザス州にある「陸軍」の大学校の「空母戦術」の教官となった。海上勤務に戻ることなく、少将に進級して退役した。 いずこも「内部抗争」はあるものだと思わせる話だ。
園でゆっくりしまーす昨日アヤカ送別会では、スタービーチみんなでベトナム料理のバインセオ、生春巻きや、スタービーチンカレー、豆腐チョコババロア、かりん酒ういろう、紅茶ういろうやらたべたり、フラ踊ったり、仏像が奏でる怪しいお経を聞いてなぜかちょっと癒されそうになったり、超わらいまくりました。今日においては、みんなの家の屋上でスイカを食べてみほー冷蔵庫んなか残ってるからねー、家庭菜園を進める家主の様子を見守ったり、水あびして楽しみましたーなかまっていいねアヤカも気をつけていってらっしゃーい皆さんお久しぶりぶりっ長らくご無沙汰しておりましてもはや忘却の彼方的存在化しつつあるトマですが気まぐれな天候に振り回されながらも何とか生きながらえておりますょ東京に戻ってきて早一年。。。結構いろんな人に出会いました。続く続かない別にしても新しい出会いというのはいつもワクワクするものです。ワイン会はそれなりに続けておりまーす。ワインだけではなくそれを通していろんな人に出会えるのもまた醍醐味でもあるしー。さて。久々にワイン会の報告でもしてみようかなって。昨日はムートン垂直会でした。今まで何度かムートンは飲んできたけれど余り感動したことがなかったのでこれを機にムートンの真髄を味わいたく。。。誕生年も入ってたしねリストです。ルネコラールのシャンパーニュはヴィンテージがつしかないらしくその最初の年の年のものでした。泡